地元昭和史①・HISTRY
「月見橋(つきみばし)の足跡」
月見橋は、県道甲斐岩間停車場月見橋の西島線の起点で、富士川に架かる県下の永久トラス橋の中では最初に架設され、当時としては、近代的な永久橋であった。
この橋が架設されるまでは、岩崎に渡し場があり、これを「両越の渡し」と言い、旅人の難儀の場所であった。明治の頃より幾度か仮橋が架けられた。大正年間には、現在の岩崎燧道の下流に鉄線を三本張った板張りの吊り橋が架けられ、辛うじて人だけの往来に利用された。しかし、強風、洪水に際しては幾日も不通となる不便なもので、永久橋架橋は地域住民の宿題であった。
昭和2年5月、西島、楠甫、岩間の三箇村で道路架橋組合を結成した。組合長に西島村長笠井長亀、同助役に楠甫村長依田徳重、岩間村長原田直太郎が就任して、地域住民挙げて県当局に陳情を行った。その結果、昭和4年8月静岡県の勝呂組により着工され、昭和
5年6月、近代的なトラス鋼橋は竣工を見た。爾来52年の歳月、年々の台風等による水害に、富士川の諸橋ことごとく流失する事態に際して、月見橋は健気にもこれに耐え、両郡、両県の間の交通を確保して来た恩恵は計り知れないものがある。先人の努力に深く敬意と感謝を捧げるものである。
橋の構造大要は次の通りである。
橋長一四八・五メートル 有効幅員四・四メートル(全幅五メートル) 設計荷重八トン 径間割三六・六メートル(四径問) 施工年度昭和5年8月 総工費七〇、三七六円 構造トラス構造 床版厚一五センチ
この床板の厚さは当時の交通事情に対応したもので、戦後の車両の大型化、重量化に伴い問題となるとは誰も予想できなかった。
ともあれ、月見橋が両郡の文字通り掛け橋となった功績はまことに多大なものがあったと言わなければならない。
昭和43年に始まった国道52号の拡幅舗装工事が住民の待望の中に始まった。しかしながら、西島トンネル拡幅に伴い、国道は全面交通止めとなり、鰍沢方面より南下する車両はすべて月見橋を通ることとなった。車両は大型化し、その数を増し、これらの車が月見橋に殺到した。
元々これらの重量に堪えるように設計されていない床版(設計荷重8トン)はたちまち破壊され、極めて危険な状態となった。
通勤、通学に月見橋を利用する旧中富町民を中心に、この危険な状態を解消すべくこの年の10月には住民運動を組織化し、山梨県
に対して改修工事の早期実施について陳情を行った。この結果、昭和44年の1月には改修工事が始まり5月には終了した。通勤者の安全が確保された。
その後鴨狩往還には峡南橋が架橋されることとなるが、月見橋の交通安全対策上、歩道橋を設けることとなり、その工事が行われた。しかしながら、昭和57年8月1~2日の台風一〇号による増水で、月見橋はあえなくも倒壊の憂き目を見るに至った。
こ こに52年間の歴史を閉じることとなった。その後中富町・六郷町の要請を受け、望月知事、金丸代議士の配慮と努力により、新たな月見橋が昭和60年3月、2億8千万円で完成した。
月見橋の新設が、我々の要望でなく、我々の最も恐れる水害によって実現したのは歴史の皮肉と言うべきであろうか。
なお、「月見橋」は別名「観月橋」の名で呼ばれていた。建設当時は東西河内領における唯一の鉄橋であり、近在小学校学童の遠足の一つの目的地 であった。しかし、それにもまして、月見の名所としてその景観をうたわれていた。
観月橋碑文の一節に、「若夫夏夜観月於橋上 天風従 岳来不可言 所以有橋名也」と橋名の由来を説き、なお末尾の詩に、「渡橋月夜 仰謄仙顔 水輪酒影 風漂銀鱗 不唯風月 花雪亦新 四時勝地 功業潤身」と、その景観をたたえている。
「月明の夜、風流人のすさぶ一管(いっかん)の笛の音は、まことに観月を楽しむ人々を一瞬、神仙境にあそばせるであろう」と読み解くことができる。
(引用・参考文献)
※一般国道52号西嶋バイパス完成記念誌「道を拓く」43頁~50ページより引用
※中富町誌 第9編 史蹟・名勝・天然記念物・文化財 第2章名勝 第1節山水系1432頁から1433頁より引用