篝火焼場(かがりびやきば)
西島集落裏山の急峻(きゅうしゅん)の曲折した坂道を登ること1.5キロくらいで少しく(すこしく)平坦なおねに出る。
さらに小道を西方に百数十メートル行くと前方に揺鉢(ようばち、すりばち)を伏せた格好の高さ3.40メートルの小丘(しょうきゅう)がある。これが武田時代の峰火場(のろしば)の祉(あと)である。
武田家軍法の飛脚篝火(ひきゃくかがりび)というのがこれであり、有事の際の急を狼煙(のろし)により、または、篝火をたいて国府に告げたのである。また、この道は有力な戦国武将もしばしば通行したため、日常警衛(けいえい)の士をも常駐させており、これを守護していたのは、小笠原小兼兵衛富清(おがさわらこがねびょうへとみきよ)で、城山地内に住み、その館もあった。小笠原氏は、青原院(せいげんいん)を開基したという由緒(ゆいしょ)は、甲斐国誌にも載って居る。
峰火場(のろしば)のあとは円形の平坦地、面積約99.2平方メートル(30坪)当時の原型がよく保たれている。現在、峰火場の周囲は松やその他の大樹がうっそうとして、見透しは充分ではないが樹間よりははるかに府中を望むこともでき、烏森(からすもり)・鰍沢町の国見平・黒沢の御前山・鐘撞堂(かねつきどう)なども一望のもとにおさめることができる。
峰火場のほぼ中央には三光天子の石碑が建立されているが、これは西島足平(あしんたいら)の住人・地場源次郎が造立したものであり、碑面には、「奉勧請三光天子」の文字が刻まれている。
地場源次郎の長男として生まれたのが地場長作(のちの千葉長作)。長作は、江戸お玉が池に道場を開いていた、幕末の剣士千葉周作門下の俊逸(しゅんいつ)としてその名をはせた。
引用・参考文献
※中富町誌 第九編 史蹟・名勝・天然記念物・文化財 峰火場1426頁より引用
※中富町誌は昭和46年11月に刊行されました。記述の中に現在の自然環境と相違する部分があることをご理解願います。
※深沢喜一氏著作「西島の今昔」39頁より一部引用
※ウエッブサイト身延町地域資料「身延道・街道のようす」鰍沢町箱原から西嶋まで(身延町立図書館)
【飛脚篝火(ひきゃくかがりび)】武田軍に「飛脚篝火(ひきゃくかがりび)」という軍法がある。いわゆる狼煙(のろし)による情報伝達である。川中島に何か急変があったときは、狼煙山から五里ヶ峰(千曲市戸倉)・腰越(こしごえ)山中久保(小県郡長和町長久保)、和田峠(小県郡長和町)・金沢(茅野市金沢)、若神子(わかみこ・山梨県北杜市須玉町若神子)など8ヶ所あったという狼煙台を経て、古府(こぶ)城(躑躅ヶ崎館・つつじがさきやかた)へと情報が伝達された。狼煙による情報伝達は、海津城から古府までの距離・約150Kmを2時間ほどで伝達したという。狼煙台には20人の兵士が常駐していた。若神子城趾には、当時の狼煙台が復元されている。
謙信が永禄4年(1561)8月16日、川中島に出陣したことがいち早く狼煙で古府城に知らされた後、櫛を梳かすように次々と早馬飛脚による詳細な注進状が、海津城から信玄の元に届けられた。狼煙と早馬飛脚との情報伝達で、謙信が妻女山に本陣を構えた2日後の18日、信玄は1万の軍勢を整えて、古府を出陣することができたのである。
※長野市「信州・風林火山」サイト「川中島の戦い」史跡ガイド史跡解説より引用
【狼煙・狼烟・烽火(のろし)】 敵襲などの変事の急報のために,高く上げる煙や火。
【青原院(せいげんいん)】山梨県南巨摩郡身延町西嶋にある曹洞宗寺院。冨向山青原院。天文3(1534)年、小笠原小兼兵衛富清(おがさわらこがねびょうえとみきよ)によって創建された。病に倒れた富清の平癒を祈願し、妻・青原ノ前が建てた庵が青原院の前身だと伝えられる。欅造りで瓦ぶき屋根の惣門は天保9(1838)年に再建。本堂内陣正面欄間にある鴟吻頭竜(しふんずりゅう)の彫刻は天保(1837)年、下山大工石川七郎左衛門68才の時の作。ともに町指定文化財。
【三光天子(さんこうてんし)】仏教用語。日天子・月天子 (がってんし) ・明星天子のこと。太陽・月・星のこと。
〖奉(ほう・ホウ・ブ・たてまつる)〗 うやうやしくさしあげる。ささげる。たてまつる。「奉献・奉呈・奉納・奉幣」
【勧請(かんじょう)】神仏の来臨を願うこと。神仏の分霊を請(しょう)じ迎えること。
【小丘(しょうきゅう)】山というほどでもない 小ぢんまりとした岡地のことです。
【篝火焼場(かがりびやきば)】 西嶋集落の西1.5km、尾根の上にある高さ3.4メートルの小丘で、武田時代の狼煙台(のろしだい)跡という。有事の際の急を狼煙により、または篝火をたいて国府(こくふ)に告げた。烽火(のろし)場の跡は円形の平坦地で、面積は約99.2平方メートル(30坪)。
【篝火(かがりび)】灯火の一種。篭(かご)を3本の脚で支えたような灯火具で、陣中、夜の警護や照明の火を燃やす道具。
【地場源次郎(ちばげんじろう)】地場源次郎は、西島村(身延町西嶋)の足平(あしんたいら)地区の開拓の恩人といわれている人。火焼場跡に、足平の地場源次郎氏が三光堂(二間四方の平家建のもの)を近隣の人たちの協力で明治初年に建立した。その後荒廃したので、取り壊わして、三光さまと刻んだ石碑のみが立てられている。同人の設立したもので、中富町の交化財に指定されている。
【千葉長作(ちばちょうさく)】山岡鉄舟の遺業を継承した剣道家。日本講武会、日本武道会などを創立し、武道の奨励に生涯を捧げた。千葉長作は、本名を地場(ちば)長作という。文久元(1861)年頃、大塩村=身延町大塩)の地場源次郎の長男として生まれた。