地名の由緒(いわれ)①
【揚檜(あげひのき)】
揚町は昭和40年代まで営業していた「揚げ店商店」の下通りで、岩間より富士川を横切り、舟で荷物を陸揚したことから、揚と名付けたとの言い伝えがある。当時、物流や移動手段としては、富士川の流れを利用した渡船が、交通の主要な手段であった。
室町時代に、現在の揚町部落ができたものと推測され、その時の郷士は西島時忠公であると考えられる。
檜町は西光寺付近に、檜の大木があって、それを地名としたらしい。西光寺は檜町より大堀向に移転して、享保年間に廃寺となった。青原院の末寺だった。
なお、青原院は創設より堤沢の南、現在の揚桧付近にあったと思われる。度々の水害により元禄年間に現在地の山本地内に移転した。
【押出(おんだし)】
押出地域は、沢奥(さおき)という。堤沢が氾濫して濁流が土砂を押出し、堆積したことから、地名となったと言われている。
【一里塚(いちりづか)】
一里塚は、現在のプール付近の地名であるが、詳細は不明である。西島の一里塚は地名のみでその痕跡はない。
慶長6年(1601)、江戸幕府が街道整備に着手し、一里ごとに一里塚が置かれ、木陰で旅人が休憩できるようになっていた。一里塚は旅人たちの距離の目安だった。
一里塚は大きな道路(街道)の脇に1里(約3.927㎞)毎に設置した塚(土盛り)である。塚のそばに榎(えのき)などの木を植えたり標識を立てたりしていた。いわゆる街道の距離を表示する里程標であり、一里塚は中国にも存在する。
中山道の一里塚は、おおよそ周囲は9㍍、高さは3㍍で、塚の上には木が植えられていた。中山道は榎と松、日光街道は杉と、街道によって植える木の種類は決まっていたようだ。
里(り)は、古代、中国から伝えられた長さの単位で、律令制では5町を一里とした。江戸時代には36町里を標準の里と定めた。距離にすると約4㎞(3,927㍍)となり、旅人は自分の位置を確認しながら、ひとつひとつの一里塚を目指して歩いた。
【一里塚】
一里塚は、現在のプール付近の地名であるが、詳細は不明である。西島の一里塚は地名のみでその痕跡はない。
慶長6年(1601)、江戸幕府が街道整備に着手し、一里ごとに一里塚が置かれ、木陰で旅人が休憩できるようになっていた。一里塚は旅人たちの距離の目安だった。
一里塚は大きな道路(街道)の脇に1里(約3.927㎞)毎に設置した塚(土盛り)である。塚のそばに榎(えのき)などの木を植えたり標識を立てたりしていた。いわゆる街道の距離を表示する里程標であり、一里塚は中国にも存在する。
中山道の一里塚は、おおよそ周囲は9㍍、高さは3㍍で、塚の上には木が植えられていた。中山道は榎と松、日光街道は杉と、街道によって植える木の種類は決まっていたようだ。
里(り)は、古代、中国から伝えられた長さの単位で、律令制では5町を一里とした。江戸時代には36町里を標準の里と定めた。距離にすると約4㎞(3,927㍍)となり、旅人は自分の位置を確認しながら、ひとつひとつの一里塚を目指して歩いた。
(参考文献)
※深沢喜一氏の著作「西島の今昔」176頁~177頁より引用
※ウェブサイト・ウィキペディア「里」より引用
※歴史を巡る・日本の街道「中山道の一里塚」62頁より引用
※下記古絵図に記載した地名の位置は、史実・資料に基づいたものではありません。伝聞等により発行人の独断で記載したものであることをご承知ください。ご意見等いただければ幸いです。