「両越の渡し」(もろこしのわたし)
鰍沢河岸(かじかざわかし)の南にある箱原から西島の間にある砥坂(とさか)といわれるところは、富士川の岸に沿った断崖絶壁(切り立ったがけ)であったことから道幅も狭く、通行者にとっては「みのぶみち(駿州往還)」最大の難所だった。
このため、箱原から「砥坂の渡し(とさかのわたし)」と呼ばれる渡し船で一度東岸(鹿島)へ渡り、そこから岩間まで東側のルートをとり、岩間宿からは「岩崎の渡し」(やさきのわたし)と呼ばれる渡し船で西岸(西島)へ戻るルートをとっていた。2つの渡しを合わせて「両越の渡し」(もろこしのわたし)と呼ばれていた。
なお、このルート(箱原から西島)は江戸時代に「新道切通(しんみちきりとおし)」として整備されたものの、道幅が非常に狭く馬による通行が困難であったため「砥坂の渡し」は、明治以降に拡幅されるまで重要な交通路となっていた
また、新道切通は明治以降拡幅され、現在は大型車も通行することが可能であるが、土砂崩れに備えて箱原第一洞門から箱原第七洞門まで洞門が7つも設置されていることなどその険しさは今でも体感することができる。
※上記説明文はウェブサイト「ウィキペディア フリー百科辞典」「駿州往還」に記述された「要 所・難所」項目より引用したものです。
【鰍沢河岸】 鰍沢河岸(かじかざわかし)は、山梨県南巨摩郡富士川町にあった河岸。近世には黒沢河岸(西八代郡市川三郷町)や青柳河岸(南巨摩郡富士川町)とともに甲州三河岸として整備され、三河岸の主力である鰍沢河岸は甲斐国と駿河国間の物流を結ぶ富士川水運の拠点で、江戸時代後期から昭和初期まで機能した。
【河岸】 河岸(かし、かがん、かわぎし)とは、狭義では河川や運河、湖、沼の岸にできた港や船着場のことである。しかし「魚河岸」などというように、商品売買を行う市場や市場のある地名を意味する場合もある。江戸時代に入ると河岸には問屋を商う商人やその蔵が集まり、一つの商業集落を形成していた。このため広い意味で町村を表す言葉でもあった。現在でもこの名残りで日本各地の地名に河岸とつく場所が多い。
【駿州往還】 駿州往還(すんしゅうおうかん)は、甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)を結ぶ街道のひとつ。なお、「駿州往還」とは甲州側からの呼び方で、静岡側からは「甲州往還」(こうしゅうおうかん)と呼ばれていたほか、地域によっては別の名称で呼ばれることがある。
【みのぶみち】 「駿州往還」には様々な別名があり、上述の「甲州往還」のほか近世の史料用語としては峡南地方の別名である「河内領」を通ることから「河内路」(かわうちじ)が専ら用いられ、付近に身延山久遠寺があり、区間の一部は参拝客が多く往来することから「身延路(みのぶみち)」と呼ばれることもある。